The KAZUSA は「上総木綿」を新しい伝統工芸として展開します。

上総木綿とは

上総木綿のはじまりは江戸時代で、江戸時代中期から昭和期まで片貝を中心とした九十九里浜沿岸で盛んに織られていた藍染の綿織物です。

文化年間以後、茂原、東金、八日市場(下総国)の商人(問屋)らがこの地域の木綿を各地で販売してその質実堅牢ぶりが評価されて生産が高まりました。河竹黙阿弥の歌舞伎の外題にもみられることから江戸時代にはすでに庶民の着物として流通していた形跡があります。

洒落本・辰巳之園(1770)に「上総木綿 せうのなき客を云」という記述があります。

上総木綿の着物の丈が短いところから、「上総木綿で丈(情)がないあるいは丈(情)のない人」の地口に用いられました。

黄表紙の『孔子縞于時藍染』(1789)には、「当世をつくす通人は、粗服をだてとして、上総木綿の着物に、地あらき麻の羽織なぞをこのむ」という記述があります。

江戸時代、東金の問屋はマーケティングにも力を入れ、河竹黙阿弥に『上総木綿小紋単地』という歌舞伎狂言を書いてもらったようです。『上総木綿小紋単地』は主人一家に忠義を果たした姉崎市兵衛の物語で1865年、江戸・中村座で初演されました。

ちなみに、「明日は明日の風が吹く」という諺は河竹黙阿弥が書いた『上総木綿小紋単地』という歌舞伎狂言のせりふです。

最初は手織りから始まりましたが、明治時代から機械化され、上総木綿で織られた衣服は、通気性が良く、虫が付きにくいため、重宝されていました。明治7年(1875)には太織8.2万・縞4.8万反をはじめとして年間14.5万反が生産され最盛期を迎えましたが昭和30年代の初めごろには生産が途絶えてしまいました。

昭和初期ごろの上総木綿
上総木綿の縞・模様(上総木綿の見本帳から)

上総木綿の復元

上総木綿の発展には九十九里浜の風土と、地場産業である鰯の地曳網寮が背景にあると考えられ、復元することで外房地域の歴史と文化を周知し、失われつつある手仕事の工程を再現し、新しい製品として生み出すことを目的に上総木綿の復元を行いました(NPO法人さすが一の宮が平成22年~24年度にかけ文化庁の助成金を得て行いました)。藍で糸を染め、すべての工程を手作業で行い上総木綿を復元しました。

「もめん-房総の木綿文化」(房総のむら2014)にて展示